nannokiさんが投稿して下さった「卵子の一生、精子の一生」スゴク興味深いですね。
卵巣内の(卵祖細胞→)卵母細胞は胎生期20周期ごろに700万個作られるのをピークにして、生まれる頃には200万個に減少し、さらに排卵が起こり始める思春期頃には約40万個まで減少します。・・・この残った40万個の卵母細胞から一生を通じ排卵される約400個の卵子をつくり、残りの卵母細胞は死滅していしまいます。
膣内に放出された精子は卵子に辿り着く過酷な旅に出る事になります。膣の内部は細菌やウイルス防止の為強い酸性状態(ph5以下)になっていて、精子にとっても過酷な環境です。膣内に放出された精子は、子宮頚管という子宮に繋がる細い道に入らなければ死滅してしまします。子宮頚管に辿り着いた後、卵管口までの長い距離を泳いでいき卵子を目指します。この卵管口には子宮側に向かって卵を移動させる鞭毛運動があり、(精子から見れば逆流状態)この鞭毛運動に対してサケが遡上するかのごとく卵管膨大部まで上り、卵子と出会う事になります。
生命とは生物史的にも個体の発生史的にも、ものすごい淘汰圧力を潜り抜けて成立している(幾多の屍の上に成立する)奇蹟的できごとなんだなと、改めて認識させられますね。見方を変えれば、卵子も精子も大多数は淘汰される運命にある訳で、カワイソウだとか効率が悪いなあなんて感じも少し思っちゃう訳ですが、それこそ「生命至上主義」や「効率主義」に毒された現代人の価値観に過ぎないのでしょう。「生命は地球より重い」ではなく「生も死も淘汰適応戦略の一部」という見方こそ生物史が教えてくれる事実です。もっといえば淘汰適応を種の中にシステム的に組み込むことで生物は進化を遂げてきたともいえるのではないでしょうか。
そこで淘汰適応の根源性を、るいネットの生物史に関する議論を参考に考えてみたいと思います。